2015年1月4日日曜日

おめでとうございます

今年もfuwafuwaffleを宜しくお願いします


今月新しく北海道メロン(夕張のようなオレンジ)をとりあえず今月限定で(評判良ければまた考えます)と、5日までは全品1個150円セールやっています。

また、今月一杯の150円商品はマーマレードです。





と、お店の事はここまでで

昨日から店はオープンしていますが、色々考えていたら書き直し書き直しでブログに出せませんでした・・・


「新年」という事で、今年また大きく変わるであろう自分の立ち位置、心情、中心に有るもの、今年も願うもの、色々好きに書いて少しでもスッキリさせてこの1年を進もうと思ったら、丸1日経っても書き足りず結局削除してしまった・・・


個人的な事なので、皆さんにはどうでも良い事なのですが

今日もう1度チャレンジしようと思います。やっぱり長くなるかなー・・・削除するかもしれないなーと思いつつ新しいスタートという意味で書いてみようと。





つなぐという事

友達との間で、「自分が死んだら綺麗さっぱり忘れて欲しいか、それとも覚えていて欲しいか」というよな会話を何回かした事があります。友達は忘れて欲しいという声の方が多かったですが、私は小さい時は忘れて欲しいと思っていたけれど成長するにつれその思いは大きく舵を切って反対に変わっていきました。

40才を過ぎて自分の子供を見ると余計にその思いを強く持ちます。当然自分も生まれてきて子供時代があり、その親もいればそのまた親もいるわけで、しかし逆にいなければ親も自分もいない。自分までつながって来た。そうすると何故生まれてきたのかという答えの無い問題を昔からよく考えたりします。

生まれてきた事にあまり意味は無く、意味を持たせるかどうかなのでは?少なくとも自分は何所かに何かをつなげていく存在であれば意味がある。小さな時からそう考える事が多いです。

そういった事を念頭に様々な事を考えても、先祖・親から自分、そして子供達へ、次の時代につながってきた&つなげていった中で、自分のルーツはどこで、どう考えてどう生きてきたのかは出来る限り知っておき、それを持ってどうするか考えるべきだと私自身は思って生きています。そうして「つながっていく・つなげていく」になるのだと思うから。ただ流されたり自分の事だけで生きるのではなく、受け継いできたものをどうつなげていくのか・・・

そう考えると子供たちにも自分がどう思い生きてきたか圧倒的に「知ってほしい・覚えていてほしい」なのであります。
自分の事だけじゃなくても、結局子供達に伝えるべき事って、多くの「知る」そして出来れば「経験・体験する」の努力をしてそこから「考える・導き出す」だと思うのです。

ここ何年か考えていた事として、自分には爺さんは早くからいなかったし、婆さんは子供が嫌いだったから思い出もあまりないしもう聞くことは出来ない。母親もいないので、父親から辿るしかない。
でも父からつないで行くような事はほとんど無いかなーという気持ちが強いのですが。「生き方・苦労」をただただ見せられただけかなと。でもそれだけでも大きいのだろうと考えたいので、そこから何をつないでいくかは自分次第だ、と考えて父を反面教師にして、無かった部分に意味を持たせて有るようにしてつなぐにはという思いに今は至っています。

自分の今の性格を形成するに至るには、やっぱり物ごころつく前後の生き方が大きく作用しているんじゃないかと思い返すと感じるので、生まれて直ぐに施設や親せきに預けられてほとんど父と一緒にいなかった自分とは違い、自分の子供とは乳児~5才くらいまでを特に出来るだけ一緒にいて「愛情や思い」なんかをぶつけてみようという思いと諸処の事情から、仕事やプライベートより優先してとにかく子供と一緒にいる時間を長く設けて接してみました。

昨年までの何年かはそういった中での時間だったと思います。そこで何かがつながれていくのではと。


そうしてこれからも子供に自分の思いや経験を出来るだけ伝えていくのが私の「つなぐ」であり、つなぐ事を中心に考えれば良い、それが生きる意味でもあるかと。

なので今年、「つなぐ」事を中心と意識しながら昨年まで自分のほぼ中心だった子供達という考え方から少し軸足を移して自分の背中を見せながら少し距離を置き、それでも中心に近い位置に子供達を置いて、自分の気持ちなどをどう見せてどうつなげていくかを考えようと思います。
そういう時期かなと。




古文書によると家康は死ぬ間際、息子の2代目将軍の秀忠に「私が死んだあと、世の中どうなる?」と問うと秀忠は「世は乱れます」と答え、家康は「それなら安心だ」と答えたそうです。その言葉の中には、「安泰の現在であっても今や先を思えば過去があり、その積み重ねであって、それを参考に備えよ」という「自分の経験や教えが子供達や未来につながって安心だ」という気持ちだったのでしょう。

久能山の東照宮にある瓶割などの彫刻にも有るように、お金や価値の高いものより人、命が大事だし、新しい事を学ぶこと知る事経験すること、そしてそれを持って苦しい時に備えるようにすることが大切だと偉人の多くはみんなに伝えようとしている気がします。



手前みそですが、わっふる、美味しいです。誰かにこんなのあったねという会話だけでもいいし、味も引き継いで発展してく人がもし出てきたら、それは自分の人生に大きな意味がある、と思いつつ今日も頑張っています。自分も何かを引き継ぎ引き継いでいく、つなぐ1部であるという思い・・・


ちょっとだけ思うのは、人間結局いつ死んでしまうかわからない中で無駄でもいいから、自分がこういった人間だったと、あなたにはこう有ってほしいととりあえず発信して、自分にそれを伝えてつなぐ事が出来なかった時、誰かがそれを子供達に伝えてくれるかもしれない事を期待してしまうのはおかしいですかね?

そんなことを考えながら色々書いてここに載せてみました。大分端折ったので意味が飛んでる部分もあるかも・・・


長々と書いてきましたが、今日はちょっと体調悪いみたいです・・・

ではまた次の機会があれば続きを




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